植松様インタビュー

 

テーマ「蒲原が鋼橋塗装発祥の地と言われた理由とその後の歩み」

 

 

 

植松様略歴

 

20歳で塗装会社に入社。その後別の塗装会社に入社され50年ほど勤務。今年2017年6月に退職された。

 

 

 

 

 

Q。蒲原が鋼橋塗装発祥の地と言われているが、その経緯などはご存知でしょうか?

 

 

 

A.蒲原はもともと半農半漁の地域で、繁忙期以外は職に困っていた。そこで、遠洋漁業に出た船が清水港に半年に一回帰港するので、そのメンテナンスに目を付け、船底に付着した貝などを剥離する作業をするようになった。その剥離する作業が現代のケレンと同じで、ついでに錆びないように錆止めを塗るようになったのがこの地域の塗装の始まりと聞いている。

 

つまりケレンが主で、塗装は付帯工事のようなものであった。

 

実際にケレン屋と言われていたし、通称でカンカンとも呼ばれていた。

 

これらの技術の蓄積が後に同様の技術を必要とする旧国鉄の橋の改修塗装などにつながるようになり、全国の塗装を請け、知名度があがったことで「鋼橋塗装発祥の地」とまわりが言うようになったようだ。

 

 

 

Q。発祥の地として実際にその仕事内容はいかがだったのでしょうか。

 

 

 

A。蒲原地域では鋼橋塗装が始まった後に桜エビ漁が本格化した。その際、その漁師として働く者が増えたことで、塗装の仕事を常に請けられる状態ではなくなった。その結果、工期や人数に余裕がなくなることで仕事が粗くなり、蒲原地域での信頼は薄かったと聞いている。

 

一方、塗装を専業・定職にする者もおり、彼らはやり手のいない地方にも仕事をしに行った。

 

その際は鋼橋塗装発祥の地の優秀な職人が来たということで、その地域の担当の方々からは好意的に迎え入れられたり、ケレン屋と呼ばれあまり歓迎されないこともあったり、ガラが悪い気性の激しい者が多かったため、良い印象を持たれなかったり、反応は様々であったようだ。

 

気性の激しさは、地方へ行く寂しさや高所での危険な作業の繰り返しなどを考えれば同情する部分もある。

 

仕事自体は、船底のメンテナンスの経験から錆落としが上手く、装飾としての塗装ではなく防食としての塗装を知っており経験もあるということである程度の信用はあったが、先ほども言ったとおり、粗さもあった。

 

 

 

Q東京タワーの塗装を手掛けたことでも有名ですが、この点何かご存知でしょうか?

 

 

 

A.磯部塗装が請け、私たちの先輩世代が手掛けた工事。仕事は粗く、気性も荒い猛者たちの集まりであったが、他の塗装工たちが断るような高いところでの作業を平気で請けたりすることもできた。その気質が東京タワーの塗装を請けることへとつながったと思う。工事自体の話はあまりわからないが、現在では安全対策や飛散防止対策が必要であるが、この時はそこまで対策はされていなかったのではないか。

 

 

 

Q。当時の高所作業など、現在と比べ危険が多かったようですが、他にもあったのでしょうか?

 

 

 

A.鉛中毒ですね。防錆力がある鉛を一般的に使用していた。実際に私も現場にいるときは塗料と鉛粉末を棒でかき混ぜていた。鉛丹やズボイド、クロム塩酸などが使用されていた。それらを鋼橋に塗っていたのだが、蒲原の職人たちが病気になり、鉛の中毒症状だということが発覚し大きな問題となった。特にクロム塩酸は猛毒と言われている。結局、鉛は使用禁止になった。現状もこの塗装が施された橋が残っており、いずれ塗替えの時期が来た時には、その対策や産廃処理などはとても大変なことであるが、避けては通れない道であるので、しっかりと知識を付け必要な対策を指示できる力が求められる。その後、代わりに使用されるようになった塩ゴム。しかしこれにも毒があることが発覚し、無毒化されたものが出るようになったが、防錆力が弱いなどの欠点があった。

 

これらのことは悪いことではあるが、蒲原地域が塗料による鉛中毒の危険性を示す全国的にも先駆けた例となり、この発信がなければ現在でも鉛を使用していた可能性がある。

 

つまり、発祥の地であると同時に危険の発見もしたのが蒲原であり、今日の塗装のあり方は蒲原地域なくしてなかったと断言できる。

 

 

 

Q。蒲原地域が色々な意味で発祥の地としての役割を果たしてきたことがわかりました。

 

植松様ご自身の経験なども伺えればと思います。

 

 

 

A.沖縄が本土復帰した後、高速道路を造る際にその塗装を請けた。当時主流の鉛の塗装は乾燥が遅いというのが特徴で、塩害の強い地域であるため、何層にも塗り重ねるために乾燥を待つ間に塩が付着し、その上に塗装をかけるという状況になるため好ましくないとの理由で乾燥の早い塩ゴムに仕様変更の要望を出し、許可が取れたので使用した。ほかの会社の話では鉛を使用したことで竣工前に錆が発生してしまい、塗り直しとなったということも聞いたことがある。

 

そういう観点で見ると仕様というのは大事で、富士川の水菅橋の塗り替えのときには、タールエポを使用していたが、これが厚く着く。何層も塗り重ねるとそのうちに根元からボロっと取れてしまい鉄がむき出しになりすぐに錆びてしまう。これを回避するために旧塗膜をすべて剥離するようにブラスト仕様に変更するよう要望を出し、許可を得た。これがおそらく日本で初めてのブラスト仕様の塗装工事で現在は一般的になっている。

 

昭和49年の石油ショックの頃は、石油精製品である塗料は当然影響を受け、材料がないという苦労をした。

 

例えば、内装工事の目地に打つ寒冷紗を付けるのに必要なボンドがない。たまたま旅行に行く当時の社長からお土産はなにがいいか聞かれたのでボンドを買ってきてくださいとお願いし、大量に買ってきてもらったこともあった。ほかにもこの年には苦労がいろいろあったと記憶している。

 

 

 

.私たちがいま一般的に使っている仕様が植松様の考えられたことであったり、材料がないという事態があったことに驚きました。自分で考えることがとても重要だと感じました。

 

 

 

A.とても大切なことで、塗装を手掛けるものとして、知識を付けて考えていかなければいけない。今は仕様にこう書かれているからその通りやる、メーカーが指定したものを使うなど、考えずに工事をしていることが多い。これでは塗装の技術は身につかない。技術とは塗装をすることではなく、自分で考えて塗装することだからだ。現場塗装はケースバイケースである。同じ塗料を使っても地域が違えば持ちが違うし、素地や相性を考えれば処置も違ってくる。塗り替えとなれば仕様が違うのは当然のことである。これを考え仕様を作るのが塗装の専門家としての本来のあるべき姿であると思う。多くの知識や経験を加味して、自分であればこうすると考えるのである。

 

また、これには現場を見ることも大切で、実際に足を運んで学ぶこともできるし、考えることもできる。「この現場はこういう問題が考えられるからここをこう変えたほうが良い」とか「数量は他と同じでもこの状態では他より手間がかかる」など、実際の工事を見ながら考えて想定し話をすることもできるようになる。

 

これは塗装という技術が高い専門性が必要であるということでもあり、この点は鋼橋塗装発祥の地としてのプライドにもつながってくる。

 

 

 

Q.鋼橋塗装発祥の地のプライドというとどのようなことなのか、詳しく教えていただきたいです。

 

 

 

A.先にも言った通り、現代は塗装仕様をメーカーが組んでいる。ということは塗ることさえできれば誰でも良いということになってくる。その一つの結果がDIYなどで塗装をすることができるようにメーカーがホームセンターなどで自社の塗料を一般の方々に売るようになった。これはこれで良い。考えなければならないのが、我々のような塗装の専門家の役割である。一般の方よりうまく塗れるということだけではただの塗るのが上手い人。専門家というのは一般論ではないところに気づかなければならない。例えば木部に塗装をする場合、DIYでは「この製品を塗れば良い」と言われたとおり塗料を買い塗りつけると思う。一方、塗装の専門家は「その木が何で何に使われどのような効果を期待しているのか」ということを踏まえ、「であればこの塗料が良い」とか、極端な話、「塗料を塗らないほうが良い」などのお話もしなければならない。根本的なことを理解した上で考え現状に合った工法を考える。このように考えることが塗装の専門家としての役割であると思うし、私はここに鋼橋塗装発祥の地としてのプライドを持って仕事をしてきた。

 

 

 

Q。この点は色々なお話がありそうですね

 

 

 

A.色々あります。例えば鉛の話で言えば、鉛が使われているものは専門性があれば一目でわかる。しかし、経験も知識もなければただの赤茶色い色で塗られたものとしか思わない。実際に御殿場での鋼橋の塗り替えで現場調査の依頼を受けたときには、現場監督はじめ皆がただ塗り替えれば良いという感じで話を持ってきたが、鉛を使っていると見てすぐにわかったので指摘をした。もしそのような場合は鉛対策をしなければならないので、予算からなにから大きく変わってくるとお伝えした。後日精密に検査することになり案の定、鉛を検出し、結局、工事は延期となった。

 

ヒノキで作った戸建て住宅のドアを設計事務所からペンキで塗ってほしいと言われたが、ヒノキの特性を考慮すると塗装などすれば持つものも持たなくなるのがわかっていたので、理由を説明しお金はいらないから塗らないでくれとまで懇願し、施主に感心され、喜ばれたこともあった。

 

観光用のヒノキのログハウスというのもあった。これは仕様が決まっていて、ヒノキの丸太屋根にクリアを塗ってほしいというお話であった。きれいに保ちたいからとのお話であったが、これは内装の話であって、クリアは紫外線に弱く外装に向かない。これだけでも驚くがさらに現場を見に行くと、大工がヒノキに墨を打っているのである。墨は木に着色し消えない。クリアを塗るつもりならせめてチョークなどを使い消せるようにしなければならないが、このことを考慮したのかと監督に聞いたがまったくわかっていなかった。結局、ヒノキの特性から説明し、クリアの特性なども踏まえ、このログハウスは塗装しないことで決着をみた。

 

このように、具体的に一件ずつ話をするとなるほどと思うかもしれないが、このまま工事を進めてしまうこともあるのが怖いところである。

 

 

 

Q.これほどのことができるようになるには相当の努力が必要ですね

 

 

 

A.必要でしょう。だからこそ、塗装にプライドを持ってほしい。今の若手は知識はあるが根本的にわかっていないことが多く、それが故、言われた通りに塗装をすることが増えているように感じる。こういった歴史をみるというのも一つの解決策で、どういう理由があって使用されてきたのか、使用されなくなったのかなど、興味をもって取り組んでほしいと思う。

 

また、現場を見てほしい。見なければわからないことがたくさんある。私はこまめに現場に顔を出していた。これは暇だからではなく、現場の動きを逐一確認し、これではやりきれないとなる前に監督に話をしておくためでもあった。こうすることで、損をしないようにした。工事に関わる人がいる以上、お金が発生する。職人にはきちんと払わなければならないし、我々も利益を出さなければ意味がない。これらを踏まえた上で話をするのである。それによって、監督からはしっかりと現場を見てくれていると信頼をされ、職人からもしっかりと面倒を見てくれると信頼され、会社からも利益を出すと信頼され、結局、相手のためにも自分のためにもなる信頼関係を構築できるのである。こういう積み重ねが大切である。

 

 

 

Q.今後の塗装業界についてはいかがでしょうか

 

 

 

A.以前とくらべ工事の量は減ってきたが、必要な業界であることに変わりはない。ただ、メーカーの言うとおりにやっていては先はない。顧客に必要とされなくなるし、利益が出なくなるからだ。

 

利益が出るようにしなければ当たり前のことであるが会社はつぶれる。つまり塗装業界がつぶれていく。そうならないように、一個人が自分できちんと工事を見積もることができるようになることで、工事の数量や手間をきちんと拾えるようにならなければならない。メーカーにはわからない現場ならではの事情を組み込めるようにしなければならない。これは原点である。それに加え先ほど言った、興味や積み重ねによってきちんと利益を出すようにできる努力をしていかなければならない。

 

これらができないようであれば苦しくなるだけである。我々の仕事の意義はここにある。これが鋼橋塗装発祥の地で塗装業界に携わっている我々のプライドである。塗装は簡単なものではない。専門性の高い業界である。それを誇りにし、また勉強し、今後も続いていってほしく思う。